条件を指定して検索
-
- 検索条件:
- 全て
-
- 登録件数:
- 608件
三木市エリア
戎神社
1月第2土曜日が宵えびす、翌日の日曜日が本えびす、翌々日の月曜日が残り福。「三木のえべっさん」として知られるこの神社は、西宮神社から勧請されて創建されたと伝えられています。延享4年(1747年)の「三木町寺社帳」に西宮の分社としての記録がみられます。祭神としては、七柱(※詳細は下記)が祀られています。今宮のえびすさん『事代主命』と、西宮のえべっさん『蛭子命』の両方が祀られているのが特徴です。
創建年は不明であり、当初は大塚町の西端で、湯の山街道沿いにある極楽寺境内にあったとも、現在の参道部分にあったとも諸説あります。明治11年(1878年)3月18日に現在の場所に移築されたが、移築当初は空き地に小さな建物程度だったと言われています。その後、年ごとに盛況を見るようになり、現在に至ります。
- 歴史に触れる
- 歴史・文化
三木市エリア
正法寺古墳公園
三木市は、美嚢川流域の古墳群をはじめ、数多くの文化財・文化遺産が点在し、永い歴史の中で今日の発展を遂げてきました。その中にあって正法寺古墳群は本市を代表する古墳であり、市民の皆様に本市の歴史にふれ、知っていただくための市内初の古墳公園です。この古墳群は、正法寺地区団体営ほ場整備事業に伴い、平成6年6月から平成7年2月にかけて発掘調査を実施し、調査の結果、横穴式石室を主体部に持った16基(調査は9基)の古墳で構成されたものであることを確認いたしました。なかでも1号墳は天井石まで残る良好な状態でありましたが、それ以外はほ場整備工事の関係で取り壊しもやむを得ないと考えましたが、横穴式石室の形態や変遷を知る上で貴重な資料を得る市内でも数少ない横穴式石室の古墳群であるため保存することにしました。なお、点在しての現状保存は、ほ場整備事業にも支障をきたすため、正法寺地区の協力をいただき、1号墳の周囲に比較的保存が良好な2号墳と3号墳の石室を移設復元し、保存を図るとともに露出展示が行えるように整備しました。今後は、市民の方々をはじめ、子どもたちの郷土学習の教材として、またハイキングコースや地域住民の皆様の憩いの場などとして大いに活用、親しんでいただければ幸いです。正法寺古墳調査地全景正法寺古墳群は、正法寺集落の背後、美嚢川と加古川の合流地を望む段丘上から正法寺山にかけて所在する古墳群で、横穴式石室を埋葬施設とする9基の古墳から構成されています。平成6年度に、1号墳から4号墳が所在する段丘上で、ほ場整備事業が行われることになり、市教育委員会ではこの4基と新たに発見された1a号墳、1b号墳及び10号墳から12号墳の5基を対象に発掘調査を行い、正法寺古墳の概要が明らかになってきました。調査した古墳の主なものについて紹介します。・1b号墳は1号墳の墳丘東裾から確認した古墳で、石室の残存長約5.4m、羨道幅約1.1m、玄室幅約1.4mを測り、左片袖の構造を意識して構築されていました。 ・2号墳は、墳丘と天井石及び左側壁の一部を失っていましたが、石室長約6.4m、羨道幅約1.1m、玄室幅約2.0mを測り、右片袖の石室を構築しています。床面から直刀や須恵器高坏などの遺物が多く出土しました。 ・3号墳は墳丘が削られ、天井石を失っていましたが、石室長約4.8m、幅約1.3mを測る無袖の石室を構築しています。 ・4号墳は全壊の状況でしたが、奥壁と床面を検出し、石室長約8.1m、羨道幅約1.5m、玄室幅約1.8mを測り、右片袖の石室が構築されていたと推定できました。床面からは、金製のイヤリングなどが出土しました。 ・10号墳は3号墳の南から確認された古墳で、墳丘の形態を失い、石室も半壊していましたが、羨道幅約1.5m、玄室幅約2.1mを測る両袖の石室が構築されていたと推定できました。羨道部からは0.8×1.3mの石組の石棺が出土したほか、釣鐘型の須恵器蓋などの遺物がまとまって出土しました。 正法寺古墳群の立地は重要な位置を含め、また、数少ない横穴式石室の古墳で構成しているほか、無袖、片袖、両袖と、石室構造の形態や変遷を知る貴重な資料が得られました。
- 歴史に触れる
- 歴史・文化

三木市エリア
愛宕山古墳
愛宕山古墳は、標高74mの弁天山に直続する地点に立地し、丘陵尾根にそって主軸を南北にとり、前方部を北にむけて築造された前方後円墳である。古墳の南側では、尾根が幅を狭め、ここを里道が東西に通るように、北からの尾根がひと区切りをなしている。後円部の頂部は標高44mで、おそらく南側に比べていくぶん高い尾根となっていたのではないかと思われる。古墳の築造に際しては、低い尾根のうちでも、低い南側とは区切られてやや高くなっていた地点を選択したと考えられる。なお、加古川市との境界は、ほぼ低平な頂部の西縁に沿って走っており、愛宕山古墳の墳丘は、すべて三木市側におさまっている。
- 歴史に触れる
- 歴史・文化

三木市エリア
本要寺
~別所長治の首検分がされた寺~神戸電鉄三木駅下車徒歩5分。三木合戦で残ったお寺で、秀吉が最後の本陣とした。三木住民の税を免除した秀吉の制札を納めた宝蔵と、制札を守って町を救った三木義民を讃える碑があります。 毎年7月18日には「夏の義民祭」が開催される夏の義民祭 天正8年、三木城攻めを終わった羽柴秀吉は、寺院の中でただひとつ焼けなかった本要寺に本陣を移して、自刃した別所長治の首実検をしました。このあと、戦火をのがれて四散した町民百姓を呼び戻すため地子免許の制札を立てました。これは、長治の善政をそのまま真似たものですが、制札は後世になってもおおいに役立ちました。たびたびの領主替えになっても、先の領主にもらった書付け(地子免許状)を差し出して税や様々な労役を免れてきましたが、徳川の世「延宝の検地令」はその願望を打ち砕きました。そこで、本要寺を会合場所として町民の会合を開いた結果、平田町の大庄屋「岡村源兵衛」と、平山町年寄「大西与三右衛門」が江戸城へ直訴に出発しました。当時の直訴は死罪でした。延宝5年3月に三木を出立した二人は、老中にまで願い出ましたが結果は思わしくない秋を迎えました。この時、本要寺に残されていた秀吉の制札がみつかり、早速江戸へ届け出たため、有力な証拠となり、暮れもおしつまった12月24日になって幕府から赦免を認められました。しかも誠意が認められた二人は死罪を免れ、再び三木の地を踏むことができました。二人の没後、本要寺に二人を義民として顕彰する碑を建ててその功をたたえました。そうして制札や記録がいかに大切かを知った人々はその側に宝蔵を建て多くの文書を残しました。本要寺では7月18日に法要と古文書を虫干しし「夏の義民祭」を執り行っており、又、大西与三右衛門の墓がある本長寺では12月8日に法要と共に「冬の義民祭」を執り行っており、二人の功績をたたえています。
- 歴史に触れる
- 歴史・文化
三木市エリア
密教院(善祥寺)
通称善祥寺と呼称されるこの寺は、孝徳天皇の白雉2年(651)、法道仙人の開祖と伝えられ、当時は一山諸堂宿坊が甍を並べて壮麗を極めたが、天正年間、三木合戦のときの兵火に遭い消失しました。その後、再興され幾多の修理と再建を経て現在に至っています。境内の古い鎮守社(1間社春日造、芽葺)は、県の重要文化財に指定されています。大賀ハスや、京都の巨椋池系のハスなど、住職が集めた200種類を越えるハスが境内で栽培されています。
- 歴史に触れる
- 歴史・文化
三木市エリア
栄運寺
羽柴秀吉の本陣があった平井山から地続きの山で、秀吉が陣中の汗を流した野風呂があったと伝えられています。また、この裏山にもうひとつの竹中半兵衛の墓があります。
- 歴史に触れる
- 歴史・文化
三木市エリア
天津神社
平成15年12月に改修工事を終えました。延徳4年(1492)建立、正面一間、側面二間、入母屋造、妻入り向拝、檜皮葺付。細部の彫刻や彩色のあとも残っており、村人が一致協力してつくったという記録も残っています。
- 歴史に触れる
- 歴史・文化
三木市エリア
秀吉本陣跡
羽柴秀吉が三木城攻めの本陣とした付城です。美嚢川と志染川の間に面した山上に位置します。南西に三木城を望むことができます。 天正6年(1578)7月、織田信忠が当地に着陣して築城し、羽柴秀吉に引き渡したとされます。10月15日、秀吉は平井山に津田宗及を招き、記念すべき初めての主催となる茶会を開催しました。同22日に別所方が襲来して平井山合戦が繰り広げられ、別所治定などが討ち死にし、別所方は敗北しました。 城の構造については、数多く残る三木城攻めの付城群の中で最大の規模を誇り、三木城の反対側の谷部に雛壇状の曲輪(くるわ)郡を設け、軍勢の駐屯部を確保しています。これは、三木城から付城内の軍勢の状況が見えないようにするためといえます。 なお、秀吉本陣跡の位置については、従来は当城の谷を隔てた北側の山上の城跡とされてきました。しかし、江戸時代前期に描かれた『諸国古城之図』(浅野文庫所蔵)に収められている「播磨国平井山」の絵図を頼りに現地確認及び測量調査を実施したところ、当城が絵図と酷似していることが判明しました。これにより、この地点が秀吉本陣跡であることが明らかとなりました。
- 歴史に触れる
- 歴史・文化

三木市エリア
金物神社
上の丸にある金物神社には、銅版の衝立に合祀した神名が記されている。●天目一箇命(あめのまひとつのみこと)鍛冶の祖神●金山毘古命(かなやまひこのみこと)製鋼の祖神●伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)鋳物の租神 古代の三神を合祀。金物業者共同の守護神として奉斎しています。昭和10年に三木金物販売同業組合の呼び掛けで、この地に金物神社が創建されました。技量、人格ともに優れた匠が御番鍛冶となり年番制で11月第一土曜日にふいごの火入式(鍛造)が行われています。鍛冶の祖神、製鋼の祖神、鋳物の祖神をまつっています。
- 歴史に触れる
- 歴史・文化