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毎年12月31日、大晦日に、鍛冶屋部落では「スズメノモン」という行事が行われます。これは元旦のお当渡しにつながっています。 「スズメノモン」というのは「雀の物」という言葉が変わったと言われています。この辺りの方言で物という意味がある場合、「もん」と言う言い方があります。「私の物」を「私のもん」、「家の者」を「家のもん」というのと同じです。 「スズメノモン」は、五穀(米・麦、あわ・きび・豆)に害する雀のわざわいを除くために、雀の好きな餌を作って与え、翌年、その害をしないように祈る行事が「雀の物」「スズメノモン」なのです。 この行事は、中町の高田郷の各部落で行われたようですが、今では鍛冶屋部落だけに行われています。鍛冶屋、金刀比羅神社はほんとうは、大歳金刀比羅神社と呼ばれ、「大歳大神」と「金刀比羅大神」が祭られています。お宮には1年を通してお宮を守られる、「大歳当人さん」と、「金刀比羅当人さん」とよばれる2人のお当人があります。 大晦日の午後になりますと、大歳当人さんの家に新旧両お当人さんが集まり、庭先でこの行事が始まります。 大歳当人さんの息子がカマドに火をつけてから、話をしないために唇に榊の葉をくわえて、玄米一升五合を鍋で炒りはじめます。炒られた米を臼に入れ、三人のお当人の息子たちがそれぞれ杵を持って搗きます。この炒り米を藁の「ツト(包み)」に入れて床に祭ります。しばらくして大歳当人さんは衣装を替え、紋付羽織・袴・白布の鉢巻姿で杖を持ち、首から「ツト」を背負います。 大歳当人さんを先頭に区長・年寄が玄関から出てきます。この時、門先で金刀比羅当人さんが、「ホーイ」と呼びますと、全員が榊の葉を口からはずし、行列はお宮へ向かいます。拝殿に向かって左に「ツト」を供えます。その後、大歳当人さんの杖は、ご神木、大杉の前に納め、拝礼して、「スズメノモン」の行事は終わります。 また、一説では、金刀比羅神社は昔から命の神様として慕われ、村では「スズメノモン」を「シズメノモン」(鎮の物)ともよび、1年のあらゆる物事の鎮めを意味して、新しい年の無事息災を祈り、藁の包みに入れられた「シズメノモン」をいただくことで、家内安全を願っています。 大歳金刀比羅神社
河上山久学寺は、浅野藩三がく寺(赤穂の花岳寺、東京の泉岳寺)の一つとして赤穂藩歴代の城主と浪士の位牌がまつられています。秋の紅葉が美しく、12月14日には、恒例の義士祭が行われます。 浅野内匠頭長直は常陸の国(茨城県)笠間の城主であったが、正保元年(1644年)大阪加番を命じられ翌年6月同じ石高をもって播州赤穂へ国替となった。これが赤穂浅野家の初代である。 赤穂城主となった長直公は赤穂藩53,000石の領地を見聞され、特に飛地で石高の多い旧加西郡の北部(現加西市)8,920石の領地を熱心に見聞された。そしてその途中、ここ久学寺にて宿泊され、当時の住職(6世是天良扶和尚)に深く帰依され山林田畑12石を寄付され浅野家の菩提寺として父、長重公と浅野家代々の弔祭を依頼される。 その後、長直公は現花岳寺を再建され中興開山として久学寺6世と7世住職をも招請し浅野家の弔祭を依頼される。 やがて、長直公も隠居されその子、長友が後を継がれたが僅か5年足らずで若死されたのでその長子である長矩が9歳で赤穂5万石の家督を継ぎ祖父の官名(内匠頭)を賜った。 その後、赤穂藩では旧加西郡大和村(現多可郡八千代町)に灌漑用のダム建設に着手し、その工事の進行を担当した城代家老である大石内蔵助が再三訪れ、その際久学寺に宿泊し当時の住職(8世碧峰)と囲碁を楽しんでおられたようである。 江戸城での刃傷事件の時、江戸から早籠が赤穂に到着した時も大石内蔵助は久学寺で碁を打っており、赤穂よりの使者から刃傷事件を聞き慌てて赤穂に帰られたという言い伝えが有ります。 また、菩提寺という関係から浅野内匠頭長矩公及び46士の戒名は久学寺9世住職海音和尚が贈ったという記録の過去帳が現在保存されている。なお、大石内蔵助の手紙(花岳寺の維持、浅野家の弔祭依頼)と吉田忠左衛門、大高源五の手紙(先祖供養の依頼)も保存している。 ※現在改修中です (平成21年12月完了予定)
養老元年(717年)老翁老媼の神様が五王子を伴い鎌倉山(河内町)に来られました。随従していた佐保神は北条へ行くように勧め、その途中神宝を盗んで、川東に逃げました。この佐保神が祀られ佐保神社(社町)になりました。 その後、翁と媼は王子を伴い北条に来られて、北条に六町歩の門田を持つ山酒人に宿泊を願い出ました。酒人は手厚くもてなした後、神である証拠を見せてほしいとお願いしました。すると、翌朝には六町歩の門田が悉く平地となり、苗が大きな松に変わりました。ここに山酒人が神殿を造り祀ったのが住吉神社(当時は酒見神社で明治期に改称)だといわれてます。 この住吉神社で桜の季節の訪れとともにはじまる「北条節句まつり」は優美さと勇壮さが織りなす華やかな春の祭りとして有名で、播磨三大まつりの一つに数えられ、長い伝統を引き継いでいます。東西の神輿、14台の豪華な屋台が、街中での巡行と勇壮な宮入を行い、古式ゆかしい鶏合せ神事、龍王の舞などが奉納され、祭りは終日大観衆でにぎわいます。
長暦元年(1037年)今の滋賀県日吉大社より、八王子大神を勧請して祀り、五穀豊穣、安産守護の神として崇敬されている。 伝承によれば、後朱雀天皇の御代長暦元年、この地 天変地異あり、疫病のため死者多く、害虫発生して、五穀稔らず、飢えて斃れる者も少なくなかったので、この地の者二十一人が、鏡ヶ原の南、大歳神社の前で七日七夜の間、妖魔退散、五穀豊穣の祈願をした。その満願の日の朝、東天ようやく白む頃、朝霧たなびく中を白幣矢を射る如く、中空に来て鏡ヶ原に降った。二十一人の者は、奇異に思い幣の降った所へ駆けつけてみると、二十一本の白幣が、そこに並んでいた。その時空中より声あって、『吾は八王子大神なり、当原に鎮まり妖魔を退け五穀豊穣の地となさむ。』と、聞こえた。祈願した二十一人は、歓喜して村人たちに伝え、広州日吉山王二十一社上七座の八王子大神を勧請して祀った。 その後、長暦二年後朱雀天皇勅使が参向されて、「正一位八王子権現」の額を奉納祈願、尚、未墾地十町歩を寄進され社領百石の諭旨賜り、開発を荘民に命じられ、荘民は社殿を初めて創建したと伝えられる。 永承四月[旧暦]九月七日祭礼当番規定を定め、その後、近衛天皇 久安三年播磨権守従三位藤原忠雅をはじめ、天永二年播磨国司中院源季房、建久年中源範影、亀山上皇の弘安の頃、左中将播磨権守藤原師良、 後醍醐天皇の元弘、建武年中播磨権守資繼王等の武門武将を経て赤松、別所、浅野等藩主の崇敬あり、降って、元文、延享、宝暦以来領主八木氏の崇敬厚く嘉永の初年に至り、領主八木丹波守より、金幣を奉納せられている
石造浮彫如来及両脇侍像(せきぞううきぼりにょらいおよびりょうわきじぞうふせきぞうずしおくがい) 日本では最古の白鳳時代(7世紀後半)に造られた石仏です。 凝灰石の切石の表面に、いすにかけた中尊と蓮華座上に立つ脇侍をそれぞれ半肉彫りであらわし、天蓋、三重宝塔、各尊の円光背を配し、下方に香炉型をはさんで相対する獅子像を陽刻しています。火災の厄にあったらしく、天蓋及び三尊は半肉彫りの部分が剥離欠失し、わずかに脇侍の一部が残るにすぎませんが、上方左右に造顕された宝塔をはじめ中尊のいすの装飾や獅子の表出などの細部の手法には極めてすぐれた技が認められ、磚仏や押出仏に多くの佳作を残した白鳳時代のこの種の仏教美術の代表的な作と折紙がつけられています。 昭和32年から奈良博物館に収められていましたが、地元の熱望によって、昭和46年に本来の古法華の地に帰って来て、今は収蔵庫にまつられ大切に保管されています。 なお、古法華石仏は常時公開しているわけではありませんので、ご覧になりたい方は、アトリエ館(TEL0790-46-0268)、または同石仏保存会長 中村貞良氏(TEL0790-48-3224)までご確認ください。
孝徳天皇の時代白雉2年(651年)法道仙人が、この山の北の峰に石に写した妙経一部全文を納め、経の尾と号し堂宇を建立したことにはじまるという古刹です。また、「広峰文書」によると1336年九州に落ち延びた足利尊氏を追う新田義貞軍をくい止めるべく、今川頼貞の軍が布陣したとあります。しかし、天正6年(1578年)羽柴秀吉軍の中国攻めの際、兵火にかかり伽藍を焼失しました。 長らく荒廃していましたが、天和2年(1682年)地元の里長高田六郎右衛門正恒兄弟らが中心になり伽藍を再興しました。その後、同山一院の密蔵院や地元の多くの方々のご尽力により幾度かの改修を重ね現在に至っています。 境内は、中央東向きに如意輪観音菩薩を本尊とする本堂や右隣の開山堂、庫裏西側の大師堂や磐座上の鐘堂などが建っており、その周りを四国八十八ヶ所めぐりが整備され、道中には高田六郎右衛門が寄進した石造多層塔などが残っています。 また、当寺に至る参道は、春は桜、秋は紅葉が美しく、境内からは遠く明石海峡大橋や淡路島などを望むことができ、歴史と自然豊かなハイキングコースとして加西観光二十選にも選ばれています。 経の尾 本堂裏の四国88ヶ所巡りの40番札所横から0.5km登ったところの三角点のあたりで、仙人が石に写した妙経を納め、堂宇を建立し、周遍寺草創の地とされる場所。北側の樹木が伐採され、眼下に南産業団地と加西市東部、その奥に鎌倉山、右手に西脇・加東の山々が望見できるます。 毘沙門天洞窟 上記山頂から樹木のトンネルをもぐり西へ約1kmの場所にあり、法道仙人が法華山行の途中に休憩したといわれるところで、毘沙門天が祭祀され同寺の奥の院とされています。入り口に碑と灯篭が建っています。
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