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歴史・文化
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19件中 1~19件を表示

久学寺

河上山久学寺は、浅野藩三がく寺(赤穂の花岳寺、東京の泉岳寺)の一つとして赤穂藩歴代の城主と浪士の位牌がまつられています。秋の紅葉が美しく、12月14日には、恒例の義士祭が行われます。

浅野内匠頭長直は常陸の国(茨城県)笠間の城主であったが、正保元年(1644年)大阪加番を命じられ翌年6月同じ石高をもって播州赤穂へ国替となった。これが赤穂浅野家の初代である。
赤穂城主となった長直公は赤穂藩53,000石の領地を見聞され、特に飛地で石高の多い旧加西郡の北部(現加西市)8,920石の領地を熱心に見聞された。そしてその途中、ここ久学寺にて宿泊され、当時の住職(6世是天良扶和尚)に深く帰依され山林田畑12石を寄付され浅野家の菩提寺として父、長重公と浅野家代々の弔祭を依頼される。
その後、長直公は現花岳寺を再建され中興開山として久学寺6世と7世住職をも招請し浅野家の弔祭を依頼される。
やがて、長直公も隠居されその子、長友が後を継がれたが僅か5年足らずで若死されたのでその長子である長矩が9歳で赤穂5万石の家督を継ぎ祖父の官名(内匠頭)を賜った。
その後、赤穂藩では旧加西郡大和村(現多可郡八千代町)に灌漑用のダム建設に着手し、その工事の進行を担当した城代家老である大石内蔵助が再三訪れ、その際久学寺に宿泊し当時の住職(8世碧峰)と囲碁を楽しんでおられたようである。
江戸城での刃傷事件の時、江戸から早籠が赤穂に到着した時も大石内蔵助は久学寺で碁を打っており、赤穂よりの使者から刃傷事件を聞き慌てて赤穂に帰られたという言い伝えが有ります。
また、菩提寺という関係から浅野内匠頭長矩公及び46士の戒名は久学寺9世住職海音和尚が贈ったという記録の過去帳が現在保存されている。なお、大石内蔵助の手紙(花岳寺の維持、浅野家の弔祭依頼)と吉田忠左衛門、大高源五の手紙(先祖供養の依頼)も保存している。

※現在改修中です
(平成21年12月完了予定)

金物古式鍛錬

 三木金物古式鍛錬技術保存会では、鍛冶の伝統技術を伝えていくため、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鉋(かんな)、鏝(こて)、小刀(こがたな)の製造業者が交替で公開実演を実施しています。
 ふいごを使い、古式ゆかしく金物を鍛える古式鍛錬実演です。金物古式鍛錬

那珂ふれあい館

歴史と文化の体験学習の場
妙見山麓に位置する那珂ふれあい館。ここでは、東山古墳群をはじめ、町内から発掘された出土品などが展示され、陶棺も原形をとどめた貴重な状態で見ることができます。体験学習室などでは、四季折々のイベントが体験でき、いろんな人とふれあうことができます。野外には、播州歌舞伎などを演じられる舞台があります。山菜を採取したり、山に登ったりと今までにない大自然を感じることができる情報発信の拠点となります。また、東隣には、県内最大級の石室をもつ1号墳など、古墳時代後期の円墳16基を復元した東山古墳群公園があり、いにしえの文化を感じることができます。
東山古墳群

玉丘史跡公園(根日女ロマンの郷)

 玉丘史跡公園内には、根日女の物語の舞台となった玉丘古墳を中心とする6基の古墳と、移築復元した1基の古墳があります。また、芝生広場や湿地観察園、野鳥観察デッキなどが整備されています。
 玉丘古墳は、国史跡に指定されている前方後円墳で、主軸の長さ109m、後円部の径64m、高さ9m、前方部の幅54m、高さ7mをはかり、周囲には幅約20mの堀をめぐらしている兵庫県で6番目の規模を誇る、5世紀造立の古墳です。また周辺には笹塚古墳、クワンス塚古墳等、計9基の古墳があり、古墳時代中期の良好な古墳群を形成しています。

住吉神社北条節句祭

養老元年(717年)老翁老媼の神様が五王子を伴い鎌倉山(河内町)に来られました。随従していた佐保神は北条へ行くように勧め、その途中神宝を盗んで、川東に逃げました。この佐保神が祀られ佐保神社(社町)になりました。
  その後、翁と媼は王子を伴い北条に来られて、北条に六町歩の門田を持つ山酒人に宿泊を願い出ました。酒人は手厚くもてなした後、神である証拠を見せてほしいとお願いしました。すると、翌朝には六町歩の門田が悉く平地となり、苗が大きな松に変わりました。ここに山酒人が神殿を造り祀ったのが住吉神社(当時は酒見神社で明治期に改称)だといわれてます。
  この住吉神社で桜の季節の訪れとともにはじまる「北条節句まつり」は優美さと勇壮さが織りなす華やかな春の祭りとして有名で、播磨三大まつりの一つに数えられ、長い伝統を引き継いでいます。東西の神輿、14台の豪華な屋台が、街中での巡行と勇壮な宮入を行い、古式ゆかしい鶏合せ神事、龍王の舞などが奉納され、祭りは終日大観衆でにぎわいます。

東光寺田遊び鬼会

白雉二年(651年)法道仙人による開基である万願寺が天文七年(1538年)の兵火により消失し、南の坊のみが再興されました。これが東光寺です。
田遊び・鬼会は、毎年1月8日午後7時頃より始まります。室町末期頃には既にあったと思われ、その後中断と再開を繰り返してきました。国指定無形民俗文化財に指定されています。
  田遊びは五穀豊穣を祈る儀式であり、農作業のしぐさを奉納します。
  鬼会は悪霊や災難を追い払うもので、たいまつや矛を手にした鬼が現れ、激しく暴れまわります。

日吉神社大祭

日吉神社は、天長7年(830)現在奥宮のある鎌倉山より神様を祀るため、近江の国、山王権現(日吉大社)が勧請されました。
祭りは毎年10月の体育の日前日に行われます。周辺地域より6基(以前は7基)の神輿が集まり、境内での6基の神輿による巡行は勇壮です。

五霊神社のホソバタブ

岩座神の五霊神社の境内に生育しているクスノキ科の常緑高木で、通常は胸高幹周りが2.2㍍になると言われています。
ここのホソバタブの胸高幹周りは、大きいものから順に4.8㍍、3.84㍍、3.38㍍で一番大きなホソバタブは県内最大の巨木です。
平成3年12月24日にこれら樹木3本が郷土記念物に指定されました。

ぽっぽこねんじゃの日

柳山寺の愛宕山神社で行われている火の祈願祭(毎年8月24日または24日に近い土曜日)は「ぽっぽこねんじゃの日」の呼び名で親しまれています。大勢の子ども達が松明を持って「ぽっぽこねんじゃ豊年じゃ」と唱え山を下りてくる姿が勇壮です。御神火を分けてもらい、仏壇や神様に供えると家内安全、無病息災、豊作などがかなえられると言われています。

酒見寺

 天平17年(745年)行基菩薩の開山と伝えられています。当寺は度々兵火に焼かれていますが、中でも天正年間の三木攻めの際の兵火では境内ことごとく焦土と化したといいます。その後再興されたのが現在の伽藍です。このような兵火にあいながらも、寛文2年(1662年)に再建された国重要文化財の多宝塔(写真)や、県重要文化財の鐘楼など見事な文化財を有しています。
 また、仁平3年(1153年)の旱魃のとき近衛天皇の勅願により播磨六山(書写、増位、八徳、妙徳、法華、蓬莱)の僧が集まり、大般若経を読んで雨乞いをすると、たちまち雨が降り、それ以後は毎年勅使を迎えての恒例行事になったといいます。隣接する住吉神社の勅使塚はその記念塚です。

スズメノモン

 毎年12月31日、大晦日に、鍛冶屋部落では「スズメノモン」という行事が行われます。これは元旦のお当渡しにつながっています。
 「スズメノモン」というのは「雀の物」という言葉が変わったと言われています。この辺りの方言で物という意味がある場合、「もん」と言う言い方があります。「私の物」を「私のもん」、「家の者」を「家のもん」というのと同じです。
  「スズメノモン」は、五穀(米・麦、あわ・きび・豆)に害する雀のわざわいを除くために、雀の好きな餌を作って与え、翌年、その害をしないように祈る行事が「雀の物」「スズメノモン」なのです。
 この行事は、中町の高田郷の各部落で行われたようですが、今では鍛冶屋部落だけに行われています。鍛冶屋、金刀比羅神社はほんとうは、大歳金刀比羅神社と呼ばれ、「大歳大神」と「金刀比羅大神」が祭られています。お宮には1年を通してお宮を守られる、「大歳当人さん」と、「金刀比羅当人さん」とよばれる2人のお当人があります。
 大晦日の午後になりますと、大歳当人さんの家に新旧両お当人さんが集まり、庭先でこの行事が始まります。
 大歳当人さんの息子がカマドに火をつけてから、話をしないために唇に榊の葉をくわえて、玄米一升五合を鍋で炒りはじめます。炒られた米を臼に入れ、三人のお当人の息子たちがそれぞれ杵を持って搗きます。この炒り米を藁の「ツト(包み)」に入れて床に祭ります。しばらくして大歳当人さんは衣装を替え、紋付羽織・袴・白布の鉢巻姿で杖を持ち、首から「ツト」を背負います。
 大歳当人さんを先頭に区長・年寄が玄関から出てきます。この時、門先で金刀比羅当人さんが、「ホーイ」と呼びますと、全員が榊の葉を口からはずし、行列はお宮へ向かいます。拝殿に向かって左に「ツト」を供えます。その後、大歳当人さんの杖は、ご神木、大杉の前に納め、拝礼して、「スズメノモン」の行事は終わります。
 また、一説では、金刀比羅神社は昔から命の神様として慕われ、村では「スズメノモン」を「シズメノモン」(鎮の物)ともよび、1年のあらゆる物事の鎮めを意味して、新しい年の無事息災を祈り、藁の包みに入れられた「シズメノモン」をいただくことで、家内安全を願っています。
大歳金刀比羅神社

八幡神社獅子舞

幡神社は加西郡史によると、勧請は永正二年(1505年)といわれ、由緒から飾東郡松原村(姫路市白浜町)鎮座の神を分霊したものと思われます。
 獅子舞は、明治20年小野市来住町から伝わったもので市の民俗文化財の指定を受けています。
 伝承されている舞は13演目ありますが、中でも「谷渡り」は、6mの梯子を山形に組み、その段上で舞うもので迫力満点です。

鶉野飛行場跡

姫路海軍航空隊、川西航空機姫路製作所鶉野工場跡
 姫路海軍航空隊鶉野飛行場は、太平洋戦争が悪化しはじめた頃、優秀なパイロットを養成するため、昭和17年に着工し、昭和18年に完成した旧日本海軍の飛行場跡です。
  飛行場の建設に伴い、昭和18年10月には姫路海軍航空隊が開設され、同時に航空整備、兵科、運用、主計、航海、機関、通信、工作、兵器、砲術、医務等の兵隊が在隊していました。
 また、飛行場の西南には、川西航空機姫路製作所鶉野工場があり、「紫電」「紫電改」など 500機余りの戦闘機が組み立てられました。 当時、航空隊には、17歳から25歳までの若者が全国から約320名集められ、ここで30時間の飛行訓練を受けた後、各航空隊へと散っていきました。
  昭和20年には、練習生による神風特攻隊「白鷺隊」が編成され、終戦までに63名の尊い命が失われました。
  今は、飛行場跡は防衛庁が管理しており、一部は神戸大学農学部の敷地として利用されています。

周遍寺

孝徳天皇の時代白雉2年(651年)法道仙人が、この山の北の峰に石に写した妙経一部全文を納め、経の尾と号し堂宇を建立したことにはじまるという古刹です。また、「広峰文書」によると1336年九州に落ち延びた足利尊氏を追う新田義貞軍をくい止めるべく、今川頼貞の軍が布陣したとあります。しかし、天正6年(1578年)羽柴秀吉軍の中国攻めの際、兵火にかかり伽藍を焼失しました。

 長らく荒廃していましたが、天和2年(1682年)地元の里長高田六郎右衛門正恒兄弟らが中心になり伽藍を再興しました。その後、同山一院の密蔵院や地元の多くの方々のご尽力により幾度かの改修を重ね現在に至っています。 境内は、中央東向きに如意輪観音菩薩を本尊とする本堂や右隣の開山堂、庫裏西側の大師堂や磐座上の鐘堂などが建っており、その周りを四国八十八ヶ所めぐりが整備され、道中には高田六郎右衛門が寄進した石造多層塔などが残っています。 また、当寺に至る参道は、春は桜、秋は紅葉が美しく、境内からは遠く明石海峡大橋や淡路島などを望むことができ、歴史と自然豊かなハイキングコースとして加西観光二十選にも選ばれています。

経の尾
本堂裏の四国88ヶ所巡りの40番札所横から0.5km登ったところの三角点のあたりで、仙人が石に写した妙経を納め、堂宇を建立し、周遍寺草創の地とされる場所。北側の樹木が伐採され、眼下に南産業団地と加西市東部、その奥に鎌倉山、右手に西脇・加東の山々が望見できるます。

毘沙門天洞窟
上記山頂から樹木のトンネルをもぐり西へ約1kmの場所にあり、法道仙人が法華山行の途中に休憩したといわれるところで、毘沙門天が祭祀され同寺の奥の院とされています。入り口に碑と灯篭が建っています。

普光寺

蓬莱山普光寺は白雉2年(651)法道仙人の開基の寺で、播磨西国第17番霊場です。また、モリアオガエル、ヒメハルゼミの生息地で有名です。
 昔、法道仙人がこの山に登った時、千手観音像を見つけました。その時の声に従い千手観音菩薩を祀り、建てたのが普光寺の始まりとのことです。
 最近では、鎌倉山(452m)を中心にした普光寺背後の山稜に行者道を利用したハイキングコースが整備され、石像物をめぐりながら自然を満喫することが出来ます。

古法華石仏

石造浮彫如来及両脇侍像(せきぞううきぼりにょらいおよびりょうわきじぞうふせきぞうずしおくがい)

日本では最古の白鳳時代(7世紀後半)に造られた石仏です。
凝灰石の切石の表面に、いすにかけた中尊と蓮華座上に立つ脇侍をそれぞれ半肉彫りであらわし、天蓋、三重宝塔、各尊の円光背を配し、下方に香炉型をはさんで相対する獅子像を陽刻しています。火災の厄にあったらしく、天蓋及び三尊は半肉彫りの部分が剥離欠失し、わずかに脇侍の一部が残るにすぎませんが、上方左右に造顕された宝塔をはじめ中尊のいすの装飾や獅子の表出などの細部の手法には極めてすぐれた技が認められ、磚仏や押出仏に多くの佳作を残した白鳳時代のこの種の仏教美術の代表的な作と折紙がつけられています。
昭和32年から奈良博物館に収められていましたが、地元の熱望によって、昭和46年に本来の古法華の地に帰って来て、今は収蔵庫にまつられ大切に保管されています。
なお、古法華石仏は常時公開しているわけではありませんので、ご覧になりたい方は、アトリエ館(TEL0790-46-0268)、または同石仏保存会長 中村貞良氏(TEL0790-48-3224)までご確認ください。

山伏峠石仏

山伏峠の中ほどに形態を異にする石棺仏がある。南北朝時代の石棺仏として貴重である。
 右の1基(写真上)は石英粗面岩製で現高2.25m、幅1.24m、厚さ40cmの巨大な家型石棺で、蓋石の内側に宝珠形の光背を彫り、蓮華座上に定印の阿弥陀座像を彫っている。建武4年(1337年)の紀年が見出された。
  左奥の1基(写真下)は、現高2.1m、幅1.05m、暑さ18cmの長持型石棺で蓋石の内面に地蔵半跏像を彫り、左右の両側に化仏の小像を3体、3段に半肉彫りしている。左右4個の縄かけ突起があり、暦応元年(1338)の刻銘がある。

八王子神社

長暦元年(1037年)今の滋賀県日吉大社より、八王子大神を勧請して祀り、五穀豊穣、安産守護の神として崇敬されている。

伝承によれば、後朱雀天皇の御代長暦元年、この地 天変地異あり、疫病のため死者多く、害虫発生して、五穀稔らず、飢えて斃れる者も少なくなかったので、この地の者二十一人が、鏡ヶ原の南、大歳神社の前で七日七夜の間、妖魔退散、五穀豊穣の祈願をした。その満願の日の朝、東天ようやく白む頃、朝霧たなびく中を白幣矢を射る如く、中空に来て鏡ヶ原に降った。二十一人の者は、奇異に思い幣の降った所へ駆けつけてみると、二十一本の白幣が、そこに並んでいた。その時空中より声あって、『吾は八王子大神なり、当原に鎮まり妖魔を退け五穀豊穣の地となさむ。』と、聞こえた。祈願した二十一人は、歓喜して村人たちに伝え、広州日吉山王二十一社上七座の八王子大神を勧請して祀った。

その後、長暦二年後朱雀天皇勅使が参向されて、「正一位八王子権現」の額を奉納祈願、尚、未墾地十町歩を寄進され社領百石の諭旨賜り、開発を荘民に命じられ、荘民は社殿を初めて創建したと伝えられる。
永承四月[旧暦]九月七日祭礼当番規定を定め、その後、近衛天皇 久安三年播磨権守従三位藤原忠雅をはじめ、天永二年播磨国司中院源季房、建久年中源範影、亀山上皇の弘安の頃、左中将播磨権守藤原師良、 後醍醐天皇の元弘、建武年中播磨権守資繼王等の武門武将を経て赤松、別所、浅野等藩主の崇敬あり、降って、元文、延享、宝暦以来領主八木氏の崇敬厚く嘉永の初年に至り、領主八木丹波守より、金幣を奉納せられている

礒崎神社

礒崎神社の馬場先には忠臣蔵で知られる赤穂藩の重臣、奥野将監の屋敷跡があります。

 奥野将監は事件後、大石内蔵助とともに藩士の取りまとめにあたったが、浅野家再興の望みが絶たれると討ち入り一派から脱盟してしまいました。

 その後、一時隠棲していたのが磯崎神社の社務所脇の山林といわれています。