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日本の原風景が残る兵庫県北播磨地域で心豊かな感動体験を!


沿線ガイド2023秋号
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物語
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7件中 1~7件を表示

あまんじゃこの長石と足跡

昔、明石にあまんじゃこという大男が住んでいました。北の海に行く途中、この地に腰を落ち着けたあまんじゃこ。いたずらが大好だったあまんじゃこは、現在の中町中学校の裏にある丘山と茂利集落にある太子山が邪魔になるので取り除こうと、石の棒を天秤にして他へ移そうとしました。しかし、中ほどで折れてしまい、その石の欠片が長石として今でもこの集落にあります。
また、熊野神社前の新宮池は和歌山熊野神社を模したとも、あまんじゃこの足跡とも言われています。

坂本の化椿

幹周り約2㍍、高さ約10㍍推定樹齢約500年で、県内最大級のヤブツバキの巨木として、平成6年2月4日に兵庫県郷土記念物に指定されました。地域の人々の暮らしを見守ってきたこのヤブツバキは、古来から、時季外れに開花することがあることから『化椿』の愛称で親しまれています。また、根本に南北朝時代の合戦で討死者を祀ったという五輪塔や石碑もあります。

大石良雄の石垣(西谷公園)

元禄時代、旧大和村は赤穂藩の飛地領でした。当時、赤穂藩は米の増産による安定した藩財政を確立するため、各地でため池などの灌漑工事を行ったようです。この地の工事は、それらの中でも群を抜いた大規模のものであり、赤穂藩直轄の工事で当時の赤穂藩筆頭家老、大石内蔵助良雄が造らせたと伝えられています。しかし、堤体を積み重ねる最後の工程の際、豪雨のため堤が決壊したといわれています。現在では、洪水吐の石垣と底樋管のトンネルを残すのみとなっています。
また西谷なごみの森は、かつて薪や炭の生産が行われ、里山林として人々に親しまれてきた森です。アカマツ林やアラカシ林、ツガ林、植林されたスギ・ヒノキの人工林が見られます。この里山の入口では、地元で「みそ岩」と呼ばれる流紋岩の岩場がみられ、ヒトツバやシシランなどの珍しい植物が観察できます。途中の展望からは、なごみの里山都をはじめ大和地区が望め、また遠方には地域のシンボル笠形山が望めます。そして、谷筋のせせらぎ沿いには、ヤブツバキの群生地が広がり、背後にせり出す巨岩と相まって独特の風景が見られます。
春には西谷公園さくら祭りが催され、桜を囲んでそば打ち、などの体験が楽しめます。
西谷公園キャンプ場

女切峠(おなきりとうげ)

女切ろまん伝説
加西市上万願寺町

 上万願寺から上芥田へ越す峠の坂を「おなきり坂」と呼び、坂の頂上には二つの塚が祀られています。この塚にひめられた悲しい恋の物語をご紹介します。

 昔、万願寺に「てる」というたいそう美しく働き者の娘が住んでおりました。この村では機織りをするのが女の役目になっておりましたので、てるも毎日機織りに精を出し、何日かに一度やってくる町の糸屋に手渡し、手間賃を貰っていました。てるの織る布は、たいそう美しくしっかりとしていて、とても評判の良いものでした。
 糸屋の若者は名を「市兵衛」と言い、働き者で心優しい青年でした。機織りの上手なてると働き者の市兵衛、いつしか二人は心惹かれるようになっていきました。
 しかし、てるには「源四郎」という親の決めた許婚がおりました。許婚があるのだから、市兵衛のことは忘れよう…と毎日一人で思い悩んでおりましたが、忘れようとすればするほど思いは募るばかり。やがて二人は人の目を盗んであいびきをするようになりました。日も西に沈みかけた頃、市兵衛が仕事を終えた頃、二人でしめしあわせて、村はずれの峠でしばしの逢瀬を楽しむのでした。しかし、度重なるにつれて両親の知るところとなり、村人の噂に上り、さらには源四郎の耳にも入ってしまったのです。両親はいさめ、源四郎は怒ります。村の人たちも“ふしだらな娘”とさげすみました。とうとうてるは、一人では外へ出られなくなりました。
 反対されると恋の炎はより燃えさかるもの。二人の思いはいよいよ強くなっていきました。とうとう二人は、一月八日の「鬼追い」祭りの夜、二人だけで村を離れることを決心したのです。
 いよいよその日、てるは逸る思いを晴れ着に包み、豊作を祈る村人たちにまぎれます。祭りが最高潮に達したころ、てるはそっと人の輪を抜け出し約束の峠までやってきました。しかしてるを待っていたのは恋しい市兵衛ではなく、何と源四郎だったのです。二人が会う約束をしていることを聞きつけて、待ち伏せしていた源四郎は、人影を市兵衛だとばかり思って、嬉しそうに駆け寄ってくるてるの姿に逆上し、てるが驚いて声を上げる間も与えず切りつけました。てるの晴れ着は真赤に染まります。その時遅く、てるの名を呼びながら市兵衛が峠の坂を登ってきました。しかしそこにあったのは、見るも無残に息絶えたてるの姿…。市兵衛は恋しさのあまり、てるのなきがらを抱きながらそばにあった池に身を投げました。市兵衛が十八歳、てるは十六歳であったそうです。

 それからというもの、村人たちは二人の死を悼み、この峠を“女切峠”、池を“女切池”と呼ぶようになりました。そしてこの場所に小さな墓を建てました。二人がいつも一緒にいられるように。

 若い二人の切ない恋の物語…

岩座神の七不思議

①血石
岩座神の入口に、多田川の渓流に臨んで巨石があります。上が平らで赤みを帯びていることから血石と呼ばれています。これは、その昔、直ぐ近くにある神光寺が隆盛を極めていたころ、加古川流域の人々は死者がでると、はるか南方から遺体を運びこの寺に葬ったと言われています。その際、死者はみんな一度この石の上に置いたことから血石と名付けられたと言われています。
また、一説には、死体があまりに重いので、この石の上で四肢を切り離して運んだため、その血でこの石が赤く染まったとも伝えられています。
②仁王門のシキミ(しおれシキミ)
神光寺の仁王門前にあるシキミは、午前中は枝葉に勢いがあって光っているのですが、午後になると急に勢いがなくなり光沢もあせてしまうといわれています。
③唐滝
干ばつの際、この滝でウナギを獲ると、必ず雨が降ると伝えられています。また、この滝には大蛇が棲み、1人で足を踏み入れた者は誰1人として無事に帰れないといわれています。
④千本杉
神光寺の上の山中にある杉で、木の中ほどから、神のいたずらか無数に枝分かれし、不思議な木を形作っています。昭和8年天然記念物に指定、昭和47年3月24日に兵庫県指定文化財に指定されています。
⑤塔の石
高さ10メートルあまりの巨岩で、塔のようにそそり立っています。『岩座神』という集落の名前もこの岩に由来すると言われています。
また、昔、あまんじゃこが夜中に天まで五つの岩を積もうとして四つまで積んだとき夜が明けたので一つをここに残したのだという説も伝えられています。
⑥雨乞岩
ここで、雨乞踊りをすれば、必ず雨が降ると伝えられている岩です。
⑦三本竹
常に三本の竹が群がっており、たとえその中の1本が枯死しても、また新しく1本生えて、いつもその数に増減がないのだそうです。
県指定天然記念物 岩座神の千本杉

根日女(ねひめ)物語

播磨国風土記に玉丘古墳のいわれとして記されている根日女伝説。それは、根日女と二人の皇子との出会いから始まった、美しくも悲しい恋の物語です。
播磨国賀毛の里を治める国造許麻(くにのみやつここま)の娘である根日女。
ある日、根日女が偶然ふたりの若者の命を救ったことから恋が芽生え、愛が育まれていきます。
しかし、その若者たちは後に23代顕宗天皇と24代仁賢天皇となる袁奚(をけ)、意奚(おけ)の二皇子だったのです。
二人は、譲り合いながら根日女に求婚しましたが、根日女は里を離れられませんでした。
やがて、都に帰った二皇子は、根日女の愛を心の支えに大和を平定し、帝につきました。
そして、皇后として迎えるため、根日女の元へ使者を遣わしましたが、折から病の床に伏していた根日女は、息を引き取ってしまうのです。
嘆き悲しんだ天皇と皇子は、根日女のために賀毛の里に墓を築き、手厚く葬りました。
その墓は、表面を美しい玉石でおおわれ、今でも玉丘古墳として残っています。

間子の七不思議

①出水(ですい)
あちこちに水の湧き出るところがあり、どんな渇水期にも枯れません。7か所あるので「7つ湯」ともよばれています。
②間子の雀は歩く
雀は普通、地上ではピョンピョンと飛んで歩きますが、間子の雀はコトコト歩くといわれています。この雀にちなんで、昭和58年に完成した加都良大橋のシンボルとして、親柱に『歩く雀』を取り入れ、町の新名所に加えました。
③石の子
間子集落の東側に、通称「石の子山」があります。この山の岩から小指サイズの丸石が割れて生まれます。この石は「子宝石」といって女性が肌身放さず持っていると、子どもが授かるといわれています。
④八百八橋(間子の石橋)
間子の集落ではお隣へ行くにも石橋を渡らなければならないほど八百八つの石橋(土地が低くたびたび水に浸かるので)がかけられていたと言われています。
⑤寒蓼(かんたで)
蓼は普通、秋から冬になれば枯れてしまいますが、間子の蓼は、年中青々としていて枯れません。
⑥塩屋の足跡
間子の入り口に「塩屋」という出水があり、その中に平らな岩があります。昔、領主のお姫様が馬でここへやってきて、馬に水を飲ませたところ、姫の足跡と馬のくつわの跡が石に残ったといわれています。
⑦五月のぼり
5月の節句には、男の子のいる家では「のぼり」を立てて祝いますが、間子では吹流しや鯉のぼりを上げません。その昔、戦が絶えなかったころ、「のぼり」を上げると旗揚げの標となり、攻められるおそれがあったことからだとか。この地に落ちのびて来た武将が、「のぼり」を攻めて来た軍勢のものと間違え、切腹してしまったことに由来しています。