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史跡・名所
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30件中 1~20件を表示

キツネ塚古墳

こぶ岩

通称・小原杉山の尾根筋の頂上、なだらかなところにある、高さ約4m、周り約10mの自然の奇岩。その名の通りコブのような岩だが、岩の片面は何かで削られたように平らになった不思議な岩。ガンや腫瘍封じのために人々の難儀を自分の身に移して、たくさんのコブがつき、現在のような形になったともいわれています。

三木城跡

神戸電鉄上の丸駅下車徒歩3分。秀吉による三木城攻めは、凄惨を極め、城主別所小三郎長治は兵士や領民の命と引き換えに一族とともに自刃したという歴史を秘める。
城塀に囲まれた本丸跡に「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された長治公辞世の歌碑があります。
毎年5月5日には三木城跡を中心に市内各所で長冶公を偲び、三木の大恩人として後生に長く語り継ぐための行事として別所公春まつりを開催しています。

五百羅漢

素朴な自然の中でゆったりと瞑想の旅を続けている石仏たち。 ここはやさしい羅漢のふるさと

 羅漢寺の中にある五百羅漢は、いつ、だれが、なんのために作ったかわからず、今もなぞにつつまれています。大分県耶馬渓山、山梨県吉沢の羅漢とともに全国的に有名な石仏であり、古くから「親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢の堂に御座れ」とうたわれ、面貌の異なる石仏の中に、必ず親や子に似た顔があると言われています。素朴で表情豊かな野の仏として多くの人々に親しまれています。

市指定文化財 昭和43年1月5日

光竜寺山城跡

八千代地域局北方にある標高214mの通称「トンナ山」の山頂部を主郭とする梯郭式山城です。室町時代中期から戦国時代にかけて建てられ、主郭は南北50m、東西24mの広さを持っています。野間山城に比べて居住性が高く2郭には建物跡が残っています。
また、この城山の跡を広く伝えるため、毎年5月に公民館周辺で城山まつりが開催されています。当日は、城山の模型を使った当時の野間城下の説明や、甲冑を身にまとい16世紀の野間城下で行われた合戦の様子の演劇が催され会場は大盛況です。参加者には、当集落からナメコ汁やおにぎりが振る舞われます。
山頂にあった「本丸」は南北48m、東西24mの長方形で、南側には建物跡が確認されています。 ここへ登る道は「大手道」と「からめて道」の二つ。 大手道は県道の大手橋付近から三の丸にいたる道で、かつて使われていた通り、ほぼ完全に残っています。 道幅1.8mのおだやかなつづら折れになっており、途中には加工した跡や中番所などが見られます。 城の北側の入り口へ続くのがからめて道。ガルテン八千代に登り口があり、尾根に沿って登ります。 「本丸跡」、「大手虎口」など分かりやすい表示も立っていますので、安心して散策を楽しんでいただけます。
野間山城跡

八幡の森史跡公園[淡河弾正の墓]

三木城主別所長治と婚姻関係にあり、同盟を結んでいた淡河弾正の墓。
淡河城主淡河弾正忠定範は智勇共にすぐれた武将で、秀吉の弟の秀長軍が攻めてきた時、雌馬の群を放って、騎馬軍勢を混乱させ、城に火をつけてその隙をついて三木城へ逃げのびます。平田、大村の合戦でも大活躍しますが、撤退の途中に八幡の森で割腹してみごとな最後をとげました。

千体地蔵

大谷川の川沿いの山裾一面に多数の地蔵があります。本尊は砂岩に1メートル近い地蔵が刻まれてます。
年代ははっきりしませんが、室町時代から子宝地蔵として信仰を集めています。
願をかけ子どもを授かるとお礼に新しい地蔵を置いていくので、その数は数えきれず、千体地蔵と呼ばれています。

国史跡 広渡廃寺跡歴史公園

7世紀後半に建立された古代寺院跡で、東西両塔、金堂、講堂などが確認され、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であったことが明らかとなっています。現在、史跡公園として整備・復元され、基壇とよばれる建物の基礎や縮尺1/20の伽藍縮小模型などにより往時の姿を偲ぶことができます。出土品を展示しているガイダンスホールも併設しています。

国宝・浄土寺

 浄土寺は、鎌倉時代、建久3年(1192)に、源平合戦の兵火により焼失した東大寺を再建するための責任者(勧進職)となった重源上人が建立した寺院です。浄土堂は、大仏様という技法を全国で唯一伝える貴重なお堂です。本瓦葺、宝形造の建物で、屋根の勾配が直線的に下り、外観は低く見えますが、内部に入るとその広さに驚かされます。柱間は6mと広く、天井を張らない化粧屋根裏や太い柱に挿された挿肘木(さしひじき)で虹梁(こうりょう)を支えているのが特徴です。また、西側の壁部は蔀戸となり、中央の円形須弥壇上に配された本尊の阿弥陀如来及び両脇侍立像に夕日の光を当て、来迎の姿を表現する構造となっています。信仰の場であるとともに、自然の光を使った芸術、オブジェともいえます。
 国宝・阿弥陀如来及び両脇侍(観音・勢至)立像は、名仏師の快慶の作で、浄土堂の本尊となる巨像です。衣紋や長く延びた指などに中国、宋の様式が感じられます。西の蔀戸から西日が差し込むとその光が本尊を赤く染めます。さらに足元の雲座あたりをかすませ、本尊が雲に乗って浮かんでいるように見えます。まさに西方浄土の姿を人々に伝えるために造られたものといえます。 
6、7月には林道をあじさいが彩ります。

夏梅太郎右衛門顕彰碑

江戸時代中期には、悪政がしきりに行われ生野代官の年貢取り立てがきびしく、庄屋の夏梅太郎右衛門は、再三、代官にお願いしましたが一向に聞き入れられず逆にとらわれの身となり、この地において処刑されました。時に明和元年(1764年)6月25日。以降、暴政は止み、村人達は安心して生活ができました。彼を慕って小さな祠を建てましたが、彼の稀なる志を忘れることのないように有志が立ち上がり、明治44年7月20日にこの石碑を建立し後世に永く伝えています。その後、平成15年新顕彰碑を建立し除幕式を行いました。

大石良雄の石垣(西谷公園)

元禄時代、旧大和村は赤穂藩の飛地領でした。当時、赤穂藩は米の増産による安定した藩財政を確立するため、各地でため池などの灌漑工事を行ったようです。この地の工事は、それらの中でも群を抜いた大規模のものであり、赤穂藩直轄の工事で当時の赤穂藩筆頭家老、大石内蔵助良雄が造らせたと伝えられています。しかし、堤体を積み重ねる最後の工程の際、豪雨のため堤が決壊したといわれています。現在では、洪水吐の石垣と底樋管のトンネルを残すのみとなっています。
また西谷なごみの森は、かつて薪や炭の生産が行われ、里山林として人々に親しまれてきた森です。アカマツ林やアラカシ林、ツガ林、植林されたスギ・ヒノキの人工林が見られます。この里山の入口では、地元で「みそ岩」と呼ばれる流紋岩の岩場がみられ、ヒトツバやシシランなどの珍しい植物が観察できます。途中の展望からは、なごみの里山都をはじめ大和地区が望め、また遠方には地域のシンボル笠形山が望めます。そして、谷筋のせせらぎ沿いには、ヤブツバキの群生地が広がり、背後にせり出す巨岩と相まって独特の風景が見られます。
春には西谷公園さくら祭りが催され、桜を囲んでそば打ち、などの体験が楽しめます。
西谷公園キャンプ場

奥豊部古墳群

6世紀から7世紀頃の古墳群。
東向きの山麓部に14基~15基の横穴式石室墳が確認されています。平成9年に1号墳の発掘調査が行われ、全長12.4㍍×10.4㍍の古墳の周りをとりまく外護列石といわれる石列や、全長9.4㍍を測る長大な横穴式石室が検出されたほか、石室内からは、比較的良好な状態の土器や金属器が大量に出土しました。
また、羨道部付近から、6世紀後半に属するとみられる、ほぼ完全なかたちの提瓶が採集されています。
町指定有形文化財 奥豊部1号墳出土遺物

子午線モニュメント

安国寺 足利義教公首塚

室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)公の首塚。
嘉吉の乱で赤松満祐により暗殺された義教は、足利家ゆかりの加東市新定の安国寺に手厚く葬られました。
境内裏手にある首塚は高さ1.7mの宝篋印塔で、ほとんど完全な形で保存されており、室町時代中期の優れた石造物として貴重な文化財です。

山口茂吉歌碑

明治35年4月加美区清水に生まれ、中央大学卒業後アララギ派の斎藤茂吉に師事。 歌碑には遠く故郷を偲んだ詩が刻んであります。
『春の雪 峰降りしつつ寒からむ わがふるさとの村を思へば』
『我が生まれし 杉原谷に棲む鹿は 昼さへ村にいでにけるかも』

御坂サイフォン橋(めがね橋)

イギリス陸軍少将パーマー氏の設計により志染川の清流にかかる日本で最初のサイフォン(噴水管)橋で、明治24年に完成しました。
山から谷を通って向かいの山へ水を運ぶこの疎水工事は、当時としては画期的な大事業で、1世紀以上経た今日でも立派な役目を果たしています。その姿から眼鏡橋としても親しまれています。

志染の石室[窟屋の金水]

志染小学校の西、窟屋大橋を渡って左の小道に入り、山の東裾を奥に進むとひっそりとした木立の中に、「志染の石室」と呼ばれる岩穴があります。

この「志染の石室」には仁賢天皇、顕宗天皇となった二王子の伝説が古くから伝わり、「日本書紀」や「播磨風土記」にも記されています。

それは、今から約1,600年前、第20代の安康天皇が亡くなったあと、皇位をめぐる争いが起こり、この争いから逃れた市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)の二人の王子、億計(オケ)王子と弘計(ヲケ)王子が隠れ住み、のちに弟の弘計王子が顕宗天皇に、兄の億計王子が仁賢天皇になられたと伝えられています。

また、ひかり藻の作用で、菜の花が咲く頃、水が金色に光ることから別名「窟屋の金水」と呼ばれています。

愛宕山古墳

愛宕山古墳は、標高74mの弁天山に直続する地点に立地し、丘陵尾根にそって主軸を南北にとり、前方部を北にむけて築造された前方後円墳である。古墳の南側では、尾根が幅を狭め、ここを里道が東西に通るように、北からの尾根がひと区切りをなしている。
後円部の頂部は標高44mで、おそらく南側に比べていくぶん高い尾根となっていたのではないかと思われる。
古墳の築造に際しては、低い尾根のうちでも、低い南側とは区切られてやや高くなっていた地点を選択したと考えられる。
なお、加古川市との境界は、ほぼ低平な頂部の西縁に沿って走っており、愛宕山古墳の墳丘は、すべて三木市側におさまっている。

東山古墳群

7世紀(古墳時代後期)に造られたとされる東山古墳群は、16基で構成され豪族の墓だといわれています。
県内最大級の石室を持つ1号墳をはじめ、須恵質切妻家形陶棺(焼き物のひつぎ)が原形をとどめた状態で出土するなど、多くの出土品が発掘されています。
那珂ふれあい館
県指定有形文化財 東山古墳群

正法寺古墳公園

三木市は、美嚢川流域の古墳群をはじめ、数多くの文化財・文化遺産が点在し、永い歴史の中で今日の発展を遂げてきました。その中にあって正法寺古墳群は本市を代表する古墳であり、市民の皆様に本市の歴史にふれ、知っていただくための市内初の古墳公園です。

この古墳群は、正法寺地区団体営ほ場整備事業に伴い、平成6年6月から平成7年2月にかけて発掘調査を実施し、調査の結果、横穴式石室を主体部に持った16基(調査は9基)の古墳で構成されたものであることを確認いたしました。

なかでも1号墳は天井石まで残る良好な状態でありましたが、それ以外はほ場整備工事の関係で取り壊しもやむを得ないと考えましたが、横穴式石室の形態や変遷を知る上で貴重な資料を得る市内でも数少ない横穴式石室の古墳群であるため保存することにしました。

なお、点在しての現状保存は、ほ場整備事業にも支障をきたすため、正法寺地区の協力をいただき、1号墳の周囲に比較的保存が良好な2号墳と3号墳の石室を移設復元し、保存を図るとともに露出展示が行えるように整備しました。

今後は、市民の方々をはじめ、子どもたちの郷土学習の教材として、またハイキングコースや地域住民の皆様の憩いの場などとして大いに活用、親しんでいただければ幸いです。

正法寺古墳調査地全景

正法寺古墳群は、正法寺集落の背後、美嚢川と加古川の合流地を望む段丘上から正法寺山にかけて所在する古墳群で、横穴式石室を埋葬施設とする9基の古墳から構成されています。

平成6年度に、1号墳から4号墳が所在する段丘上で、ほ場整備事業が行われることになり、市教育委員会ではこの4基と新たに発見された1a号墳、1b号墳及び10号墳から12号墳の5基を対象に発掘調査を行い、正法寺古墳の概要が明らかになってきました。調査した古墳の主なものについて紹介します。

・1b号墳は1号墳の墳丘東裾から確認した古墳で、石室の残存長約5.4m、羨道幅約1.1m、玄室幅約1.4mを測り、左片袖の構造を意識して構築されていました。
・2号墳は、墳丘と天井石及び左側壁の一部を失っていましたが、石室長約6.4m、羨道幅約1.1m、玄室幅約2.0mを測り、右片袖の石室を構築しています。床面から直刀や須恵器高坏などの遺物が多く出土しました。
・3号墳は墳丘が削られ、天井石を失っていましたが、石室長約4.8m、幅約1.3mを測る無袖の石室を構築しています。
・4号墳は全壊の状況でしたが、奥壁と床面を検出し、石室長約8.1m、羨道幅約1.5m、玄室幅約1.8mを測り、右片袖の石室が構築されていたと推定できました。床面からは、金製のイヤリングなどが出土しました。
・10号墳は3号墳の南から確認された古墳で、墳丘の形態を失い、石室も半壊していましたが、羨道幅約1.5m、玄室幅約2.1mを測る両袖の石室が構築されていたと推定できました。羨道部からは0.8×1.3mの石組の石棺が出土したほか、釣鐘型の須恵器蓋などの遺物がまとまって出土しました。

正法寺古墳群の立地は重要な位置を含め、また、数少ない横穴式石室の古墳で構成しているほか、無袖、片袖、両袖と、石室構造の形態や変遷を知る貴重な資料が得られました。