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日本の原風景が残る兵庫県北播磨地域で心豊かな感動体験を

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歴史・文化

観光・宿泊スポットの検索結果

19件中 1~10件を表示

那珂ふれあい館

歴史と文化の体験学習の場
妙見山麓に位置する那珂ふれあい館。ここでは、東山古墳群をはじめ、町内から発掘された出土品などが展示され、陶棺も原形をとどめた貴重な状態で見ることができます。体験学習室などでは、四季折々のイベントが体験でき、いろんな人とふれあうことができます。野外には、播州歌舞伎などを演じられる舞台があります。山菜を採取したり、山に登ったりと今までにない大自然を感じることができる情報発信の拠点となります。また、東隣には、県内最大級の石室をもつ1号墳など、古墳時代後期の円墳16基を復元した東山古墳群公園があり、いにしえの文化を感じることができます。
東山古墳群

住吉神社北条節句祭

養老元年(717年)老翁老媼の神様が五王子を伴い鎌倉山(河内町)に来られました。随従していた佐保神は北条へ行くように勧め、その途中神宝を盗んで、川東に逃げました。この佐保神が祀られ佐保神社(社町)になりました。
  その後、翁と媼は王子を伴い北条に来られて、北条に六町歩の門田を持つ山酒人に宿泊を願い出ました。酒人は手厚くもてなした後、神である証拠を見せてほしいとお願いしました。すると、翌朝には六町歩の門田が悉く平地となり、苗が大きな松に変わりました。ここに山酒人が神殿を造り祀ったのが住吉神社(当時は酒見神社で明治期に改称)だといわれてます。
  この住吉神社で桜の季節の訪れとともにはじまる「北条節句まつり」は優美さと勇壮さが織りなす華やかな春の祭りとして有名で、播磨三大まつりの一つに数えられ、長い伝統を引き継いでいます。東西の神輿、14台の豪華な屋台が、街中での巡行と勇壮な宮入を行い、古式ゆかしい鶏合せ神事、龍王の舞などが奉納され、祭りは終日大観衆でにぎわいます。

東光寺田遊び鬼会

白雉二年(651年)法道仙人による開基である万願寺が天文七年(1538年)の兵火により消失し、南の坊のみが再興されました。これが東光寺です。
田遊び・鬼会は、毎年1月8日午後7時頃より始まります。室町末期頃には既にあったと思われ、その後中断と再開を繰り返してきました。国指定無形民俗文化財に指定されています。
  田遊びは五穀豊穣を祈る儀式であり、農作業のしぐさを奉納します。
  鬼会は悪霊や災難を追い払うもので、たいまつや矛を手にした鬼が現れ、激しく暴れまわります。

五霊神社のホソバタブ

岩座神の五霊神社の境内に生育しているクスノキ科の常緑高木で、通常は胸高幹周りが2.2㍍になると言われています。
ここのホソバタブの胸高幹周りは、大きいものから順に4.8㍍、3.84㍍、3.38㍍で一番大きなホソバタブは県内最大の巨木です。
平成3年12月24日にこれら樹木3本が郷土記念物に指定されました。

玉丘史跡公園(根日女ロマンの郷)

 玉丘史跡公園内には、根日女の物語の舞台となった玉丘古墳を中心とする6基の古墳と、移築復元した1基の古墳があります。また、芝生広場や湿地観察園、野鳥観察デッキなどが整備されています。
 玉丘古墳は、国史跡に指定されている前方後円墳で、主軸の長さ109m、後円部の径64m、高さ9m、前方部の幅54m、高さ7mをはかり、周囲には幅約20mの堀をめぐらしている兵庫県で6番目の規模を誇る、5世紀造立の古墳です。また周辺には笹塚古墳、クワンス塚古墳等、計9基の古墳があり、古墳時代中期の良好な古墳群を形成しています。

スズメノモン

 毎年12月31日、大晦日に、鍛冶屋部落では「スズメノモン」という行事が行われます。これは元旦のお当渡しにつながっています。
 「スズメノモン」というのは「雀の物」という言葉が変わったと言われています。この辺りの方言で物という意味がある場合、「もん」と言う言い方があります。「私の物」を「私のもん」、「家の者」を「家のもん」というのと同じです。
  「スズメノモン」は、五穀(米・麦、あわ・きび・豆)に害する雀のわざわいを除くために、雀の好きな餌を作って与え、翌年、その害をしないように祈る行事が「雀の物」「スズメノモン」なのです。
 この行事は、中町の高田郷の各部落で行われたようですが、今では鍛冶屋部落だけに行われています。鍛冶屋、金刀比羅神社はほんとうは、大歳金刀比羅神社と呼ばれ、「大歳大神」と「金刀比羅大神」が祭られています。お宮には1年を通してお宮を守られる、「大歳当人さん」と、「金刀比羅当人さん」とよばれる2人のお当人があります。
 大晦日の午後になりますと、大歳当人さんの家に新旧両お当人さんが集まり、庭先でこの行事が始まります。
 大歳当人さんの息子がカマドに火をつけてから、話をしないために唇に榊の葉をくわえて、玄米一升五合を鍋で炒りはじめます。炒られた米を臼に入れ、三人のお当人の息子たちがそれぞれ杵を持って搗きます。この炒り米を藁の「ツト(包み)」に入れて床に祭ります。しばらくして大歳当人さんは衣装を替え、紋付羽織・袴・白布の鉢巻姿で杖を持ち、首から「ツト」を背負います。
 大歳当人さんを先頭に区長・年寄が玄関から出てきます。この時、門先で金刀比羅当人さんが、「ホーイ」と呼びますと、全員が榊の葉を口からはずし、行列はお宮へ向かいます。拝殿に向かって左に「ツト」を供えます。その後、大歳当人さんの杖は、ご神木、大杉の前に納め、拝礼して、「スズメノモン」の行事は終わります。
 また、一説では、金刀比羅神社は昔から命の神様として慕われ、村では「スズメノモン」を「シズメノモン」(鎮の物)ともよび、1年のあらゆる物事の鎮めを意味して、新しい年の無事息災を祈り、藁の包みに入れられた「シズメノモン」をいただくことで、家内安全を願っています。
大歳金刀比羅神社

ぽっぽこねんじゃの日

柳山寺の愛宕山神社で行われている火の祈願祭(毎年8月24日または24日に近い土曜日)は「ぽっぽこねんじゃの日」の呼び名で親しまれています。大勢の子ども達が松明を持って「ぽっぽこねんじゃ豊年じゃ」と唱え山を下りてくる姿が勇壮です。御神火を分けてもらい、仏壇や神様に供えると家内安全、無病息災、豊作などがかなえられると言われています。

周遍寺

孝徳天皇の時代白雉2年(651年)法道仙人が、この山の北の峰に石に写した妙経一部全文を納め、経の尾と号し堂宇を建立したことにはじまるという古刹です。また、「広峰文書」によると1336年九州に落ち延びた足利尊氏を追う新田義貞軍をくい止めるべく、今川頼貞の軍が布陣したとあります。しかし、天正6年(1578年)羽柴秀吉軍の中国攻めの際、兵火にかかり伽藍を焼失しました。

 長らく荒廃していましたが、天和2年(1682年)地元の里長高田六郎右衛門正恒兄弟らが中心になり伽藍を再興しました。その後、同山一院の密蔵院や地元の多くの方々のご尽力により幾度かの改修を重ね現在に至っています。 境内は、中央東向きに如意輪観音菩薩を本尊とする本堂や右隣の開山堂、庫裏西側の大師堂や磐座上の鐘堂などが建っており、その周りを四国八十八ヶ所めぐりが整備され、道中には高田六郎右衛門が寄進した石造多層塔などが残っています。 また、当寺に至る参道は、春は桜、秋は紅葉が美しく、境内からは遠く明石海峡大橋や淡路島などを望むことができ、歴史と自然豊かなハイキングコースとして加西観光二十選にも選ばれています。

経の尾
本堂裏の四国88ヶ所巡りの40番札所横から0.5km登ったところの三角点のあたりで、仙人が石に写した妙経を納め、堂宇を建立し、周遍寺草創の地とされる場所。北側の樹木が伐採され、眼下に南産業団地と加西市東部、その奥に鎌倉山、右手に西脇・加東の山々が望見できるます。

毘沙門天洞窟
上記山頂から樹木のトンネルをもぐり西へ約1kmの場所にあり、法道仙人が法華山行の途中に休憩したといわれるところで、毘沙門天が祭祀され同寺の奥の院とされています。入り口に碑と灯篭が建っています。

久学寺

河上山久学寺は、浅野藩三がく寺(赤穂の花岳寺、東京の泉岳寺)の一つとして赤穂藩歴代の城主と浪士の位牌がまつられています。秋の紅葉が美しく、12月14日には、恒例の義士祭が行われます。

浅野内匠頭長直は常陸の国(茨城県)笠間の城主であったが、正保元年(1644年)大阪加番を命じられ翌年6月同じ石高をもって播州赤穂へ国替となった。これが赤穂浅野家の初代である。
赤穂城主となった長直公は赤穂藩53,000石の領地を見聞され、特に飛地で石高の多い旧加西郡の北部(現加西市)8,920石の領地を熱心に見聞された。そしてその途中、ここ久学寺にて宿泊され、当時の住職(6世是天良扶和尚)に深く帰依され山林田畑12石を寄付され浅野家の菩提寺として父、長重公と浅野家代々の弔祭を依頼される。
その後、長直公は現花岳寺を再建され中興開山として久学寺6世と7世住職をも招請し浅野家の弔祭を依頼される。
やがて、長直公も隠居されその子、長友が後を継がれたが僅か5年足らずで若死されたのでその長子である長矩が9歳で赤穂5万石の家督を継ぎ祖父の官名(内匠頭)を賜った。
その後、赤穂藩では旧加西郡大和村(現多可郡八千代町)に灌漑用のダム建設に着手し、その工事の進行を担当した城代家老である大石内蔵助が再三訪れ、その際久学寺に宿泊し当時の住職(8世碧峰)と囲碁を楽しんでおられたようである。
江戸城での刃傷事件の時、江戸から早籠が赤穂に到着した時も大石内蔵助は久学寺で碁を打っており、赤穂よりの使者から刃傷事件を聞き慌てて赤穂に帰られたという言い伝えが有ります。
また、菩提寺という関係から浅野内匠頭長矩公及び46士の戒名は久学寺9世住職海音和尚が贈ったという記録の過去帳が現在保存されている。なお、大石内蔵助の手紙(花岳寺の維持、浅野家の弔祭依頼)と吉田忠左衛門、大高源五の手紙(先祖供養の依頼)も保存している。

※現在改修中です
(平成21年12月完了予定)

酒見寺

 天平17年(745年)行基菩薩の開山と伝えられています。当寺は度々兵火に焼かれていますが、中でも天正年間の三木攻めの際の兵火では境内ことごとく焦土と化したといいます。その後再興されたのが現在の伽藍です。このような兵火にあいながらも、寛文2年(1662年)に再建された国重要文化財の多宝塔(写真)や、県重要文化財の鐘楼など見事な文化財を有しています。
 また、仁平3年(1153年)の旱魃のとき近衛天皇の勅願により播磨六山(書写、増位、八徳、妙徳、法華、蓬莱)の僧が集まり、大般若経を読んで雨乞いをすると、たちまち雨が降り、それ以後は毎年勅使を迎えての恒例行事になったといいます。隣接する住吉神社の勅使塚はその記念塚です。

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